「謙遜すること」の再評価
- 仕事のこと
- 2017年1月24日
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「謙遜する」ということに疑問があります。意味としては「控えめに振る舞うこと」ですが、果たして控えめにするということは自分や家族、同僚を低く評価することと同義でしょうか。対人援助場面でも思うことがあり、謙遜するということの意味が本質と違う形で理解されているのではと私なりに考えています
多くの方が思うこととしては、形式的な贈り物をする際の
「つまらないものですが」「たいしたものではないのですが」
という表現は、形式上の挨拶ですが、含む意味として贈る側としては「気に入っていただけるか」「もし気に入っていただけたら」という期待を込めた気持ちはあると思います。しかし、それと同時に「気に入られなかった」という結果を合理化する保険的な意味とも思います
受け取る側として、言葉通り単純に受け止めると「あなたがつまらない、たいしたことない」と思っている物を贈るの?となりますが、もちろん日本人の多くの方は社交辞令として受け止めるとは思いますし、素直に贈り物を頂く感謝の気持ちは抱いてくれるとは思いますが、わたしは良い表現だとは全く思えません
ただ、それよりも疑問視したいのは自分、家族、同僚などの評価を低くする謙遜のあり方です

「わたしなんて、妻なんて、親なんて、きょうだいなんて、部下なんて」まだまだです
ネットで時折、日本人の表現は外国人には理解できないという記事を見たりもしますが、このような振る舞いが定着していることについて、私自身深い知識などはなく、浅はかな主観ではありますが、慎ましくすることで他者との協調を大事にすることが発展に必要であったことの結果でもあるとは思っています
へりくだることで他人を敬う形をとっています。他者を一番とし、自らの周囲は劣ったもの。本心では思っていなくとも言葉として出しています。また、言葉だけでなく態度でとってしまうこともあるでしょう。
私はこの謙遜の表現にこそ疑問を持っており、このような言葉を当たり前に発するべきではないと考えています。相談支援を行うなかでも、あまりにも「自己の存在自体を承認されていないと感じている方」、あるいは「自己に価値がなければいけない」と思っている方が多くいるように思われます(少なからず自分自身にもそのようなところはありますが)
少しだけ例を出します
子ども支援のなかで感じること、教育では差別化、他者との比較が平然と行われています。また、学校のプログラムに従順でなければなりません。「わたしでいること」の意味は学校で、地域で、家庭で得られていますか。テストは赤点だらけ、でも笑顔になれる時間を評価はしていますか
就労支援で感じること、現在、人材の価値基準は効率や過度の個性を求められます。他者と比較して「わたしはなにが優れているか」
でも、「わたしには資格も他者より優れた能力はありません」そうつぶやくあなたはメンバーとの会話のなかで、誰とでも優しく話していますよ。それはみんなできることではないと言われた経験も「そんなことは無いですよ」で終わってきたのでしょうか
「そんなことはないですよ」「自分はたいしたことはしていない」「あのひとと比べるとまだまだだ」と言葉にすることは、問題を浅はかにすること、努力や周囲の力、なにより「わたし」を否定すること
褒められたとき、心のなかでは自身を肯定的に捉えていても、謙遜文化があることで卑下することを肯定する、このアンビバレンツな感情は確実に植えつけられている気がします
謙遜することだけが原因では無いのですが、個が生きづらいと感じる方が増えている閉塞した社会状況だからこそ「わたし」を軽視する謙遜のような日本独特の表現は見直す時期が来ているのかと思っています
控えめにするということの目的は他者を敬うこと、わたしは他の誰かによって支えられていると感じること
そして「わたし自身が他の誰かを支えている」ことの自覚も合わせ備えること
意味としては「謙遜」になるのでしょうか
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